カツ丼小太郎の日記

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信松院へ行って来ました

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今日は西八王子の信松院へ行って来ました。信松院は武田信玄の四女松姫が庵を結び晩年を過ごしたお寺です。奥多摩に松姫峠という峠があって東京のサイクリストならご存知だと思います。小生も何度か自転車で越えた峠で、はるか大月まで標高差1000メートルを超える豪快なダウンヒルが楽しめるコースです。

松姫は父の信玄と織田信長とが合意した政略結婚で信長の長男信忠との婚約が決まっていましたが、徳川家康が信玄と戦った三方ヶ原の会戦に織田の援軍が参加していたため、信玄が怒って婚約を破棄してしまいました。元々、信玄の西上上洛を恐れていた信長はありとあらゆる手段を尽くして信玄のご機嫌を取っていましたが、同盟国の三河徳川家には援軍を送らざるを得ず、申し訳程度に戦意のない援軍三千を送りました。武田軍は圧勝、徳川家は惨敗して家康は恐怖のあまり馬上で脱糞、つまり気付かぬうちにウンチをもらして命からがら浜松城へ駆け込みました。その後、信玄は西上の途上で病没し、勝頼の代で武田家は滅亡しました。

松姫はその頃、弟の五男信盛が守る伊那高遠城に滞在していましたが、織田軍の武田領への侵入の報を聞き、信盛の息女を伴い、甲府へ戻り、さらに郡内(大月周辺を指す)の小山田信茂を頼りました。松姫はここで信茂の息女も預かり、奥多摩を越えて武蔵の国へ逃れます。一方、大月の岩殿山に立て籠もった信茂は落ち延びてきた勝頼一行を城に入れず、裏切り者の汚名を残しました。後日、信茂は織田軍に投降しましたが、信長はこの主君裏切りを許さず、信茂を斬首したと言われています。

近代になるまで奥多摩越えの道などは車道ではなく、ただの一筋の山道でしたから、松姫一行は道無き道を越えて八王子の案下から横山宿へ辿り着き、今の信松院の辺りに庵を結んで尼となりました。その頃の山道は渓流沿いに設けられてはいるものの、今の車道のように橋や足場で空中に平らな路面を延ばすわけにいきませんから、地形に合わせて上り下りを繰り返す難行苦行でした。そもそも奥多摩越えの道は甲州裏街道と呼ばれ、関所を通らぬ裏道でしたが、表の甲州街道でさえ、宿場が道沿いに整備されているだけですから、歩いて旅をするというのは大変な時代だったのですね。

現在の信松院は観音堂の上に仏舎利塔が立ついかにも仏教的なデザインですが、タイの名刹から仏舎利(お釈迦様の骨と称される)を譲り受けた関係だそうです。お寺の門扉には金箔の武田菱が打ってあり、松姫が供養を続けた生家である武田家の昔がそぞろ偲ばれます。